ジャパニーズウイスキーの味わいを造った竹鶴政孝氏

ジャパニーズウイスキーの味わいを造った竹鶴政孝氏

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国産ウイスキーを生んだ鳥井信治郎氏と竹鶴政孝氏

国産ウイスキーを生んだ鳥井信治郎氏と竹鶴政孝氏

KPG Payless2/ Shutterstock.com

草創期のジャパニーズウイスキーを語るうえで欠かせないキーパーソンといえば、サントリー創業者の鳥井信治郎氏と、ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝氏のふたりです。鳥井氏と密接な関係にあり、サントリーのウイスキー誕生を現場で指揮した人物が竹鶴氏です。竹鶴政孝氏といえば、NHK連続テレビ小説『マッサン』の主人公のモデルになった人物としても知られています。

広島県竹原市の酒造業の家に生まれましたが、学生時代に洋酒の魅力に目覚め、摂津酒造(のちに宝酒造に吸収合併)に入社。国産ウイスキーの製造を夢見ていた同社からスコットランドに派遣され、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶ傍ら、ウイスキーづくりの現場に入るチャンスを模索。スペイサイドのロングモーン蒸留所での実習を経て、最終的にはキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所に腰を落ち着け約半年間の実習を受けます。

そのとき彼が書き留めた会社への報告書が、「竹鶴ノート」といわれるもので、ウイスキーの製造方法の全貌が細かく書き込まれ、のちのジャパニーズウイスキーの運命を決めるものでもありました。

ニッカウヰスキーの創業

ニッカウヰスキーの創業

YMZK-Photo/ Shutterstock.com

鳥井信治郎氏と竹鶴政孝氏の出会いは、竹鶴氏が摂津酒造に勤めていた時代。鳥井商店と摂津酒造の間で取引が行われていたことが二人の出会いのきっかけです。スコットランドでウイスキー造りを学んで帰国したものの、摂津酒造が不況のあおりでウイスキー事業が頓挫。失意のなか同社を退社していた竹鶴氏をウイスキー作りへの参入を模索していた鳥井氏が山崎蒸留所の指揮官に誘ったことから、サントリーのウイスキーが生まれたのです。

竹鶴氏は山崎蒸留所の建設スタートから10年間、鳥井氏の元でウイスキー造りに専念しましたが、サントリー社内に後継者や技術者が育ち、本人の契約も10年間だったことから退社。自身が本当に理想とするウイスキーを造るために、スコットランドと似た自然環境のある北海道余市町で大日本果汁、のちのニッカウヰスキーを創業しました。

ウイスキーは製造開始から出荷まで、長い時間を要するため、当初は地元特産のリンゴを使ってリンゴジュースを販売。その傍らで粛々とウイスキーの原酒作りに励み、1940年、第一号となる「ニッカウヰスキー」を世に送り出しました。

ニッカウヰスキーの人気銘柄

ニッカウヰスキーの人気銘柄

Yavuz Sariyildiz/ Shutterstock.com

戦時下にあった当時の日本では、ニッカウヰスキーの出荷直後にウイスキーが統制品となるなど同社のスタートは波乱含みとなりましたが、戦中は海軍下で事業を継続すると、戦後は朝日麦酒、現在のアサヒビールのグループに入り、ウイスキー事業を徐々に拡大していきました。

本場の高品質なウイスキーにこだわりを持つ竹鶴氏は当初、高価格帯の「ブラックニッカ」しか作りませんでしたが、市場性を重視してリーズナブルな「丸びんウヰスキー」を発売。時を同じくして戦後日本の洋酒ブームの波にも乗り、ニッカウヰスキーの販売額も飛躍的に伸びました。

1962年には、のちに同社のブレンデッド・ウイスキーを代表するブランドとなる「スーパーニッカ」を発売。1970年代にはTVコマーシャルも積極的に行い、ニッカウヰスキーの知名度も大きく飛躍しました。同社は1984年からシングルモルトウイスキーの発売も開始し、国産ではいち早くシングルモルトウイスキーを手掛けたことでも知られています。

その後も竹鶴氏のこだわりを脈々と受け継ぎ、ブレンデット・ウイスキー「フロム・ザ・バレル」や、シングルモルト「余市」、ピュアモルト「竹鶴」など、国際的なウイスキー品評会で数々の賞を受賞。日本を代表する銘柄を作り続けています。

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