竹鶴政孝氏、日本での本格ウイスキー造りに人生をかけたニッカウヰスキー創業者の軌跡をたどる
竹鶴政孝氏は、いわずと知れたニッカウヰスキーの創業者です。本格ウイスキー造りに生涯を捧げ、多大な功績を残したことから、「日本のウイスキーの父」と呼ばれることも。今回は、竹鶴政孝氏のウイスキー造りに対する信念やこだわりなどを振り返って紹介します。
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目次
「日本のウイスキーの父」と讃えられる竹鶴政孝氏が、国産ウイスキーに与えた影響などについてみていきます。
竹鶴政孝氏はニッカウヰスキーの創業者
出典:ニッカウヰスキーサイト
竹鶴政孝氏の人物像と功績について、かんたんにおさらいします。
竹鶴政孝氏は日本のウイスキーの父と称されることも
竹鶴政孝氏は、ニッカウヰスキーの創業者であり、日本のウイスキーの歴史を切り拓いた功労者です。国産ウイスキーの発展に大きく貢献したことから、「日本のウイスキーの父」と称されることもあります。
ウイスキーの本場スコットランドでウイスキー造りを学んだ竹鶴政孝氏は、スコットランドに負けない本格ウイスキー造りを志し、人生のすべてを捧げました。情熱の源になったのは、「日本人に本物のウイスキーを飲んでもらいたい。」という一途な想い。戦後、粗悪な三級ウイスキーが席巻していた日本で品質にこだわり、本物を追い求めて懸命にウイスキー造りに励みました。
画像提供:アサヒグループジャパン株式会社
NHK連続テレビ小説『マッサン』の放送で、妻のリタ氏との物語が話題に
竹鶴政孝氏が注目されるようになったきっかけは、2014年9月29日に放送を開始したNHK連続テレビ小説『マッサン』でした。
竹鶴政孝氏と妻のリタ氏をモデルにした夫婦の物語と、ジャパニーズウイスキーの黎明期を描いた興味深い作品で、初の外国人ヒロイン起用ということもあって大きな話題に。ドラマはヒットして、愛飲家だけでなく、ふだんウイスキーを飲まない人の関心を集め、ニッカウヰスキーをはじめとした国産ウイスキーブームが到来。
『マッサン』は実話に基づくフィクションですが、竹鶴政孝氏はドラマの主人公「マッサン」のよう愛妻を思いやり、リタ氏はヒロイン「エリー」のように献身的に夫を支えました。
ただ、竹鶴氏の生家は今に続く広島の造り酒屋「竹鶴酒造」で、当時は国際結婚が珍しかったこともあって、リタ氏との結婚を大反対されたそう。それでも、両家の反対を押し切って2人は結婚し、日本で新生活を始めたのです。リタ氏は、文化の違いに戸惑い、苦労を背負いながらも、本格ウイスキー造りにまい進する夫の夢を見守り続けました。
リタ氏の逝去後、深い悲しみに暮れた竹鶴氏でしたが、妻を想い自らを鼓舞して、息子の威(たけし)氏とともに渾身のブレンデッドウイスキー「スーパーニッカ」を誕生させました。「スーパーニッカ」には、最大の理解者であった妻への愛と感謝の気持ちが込められています。
竹鶴政孝氏は本格的なウイスキー造りに生涯を捧げた
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竹鶴政孝氏自身の、ウイスキー史を振り返ります。
本場スコットランドでウイスキー造りの基礎を学ぶ
竹鶴政孝氏は、ウイスキーの本場スコットランドで、本格ウイスキーの製法技術を学んだことで知られます。グラスゴー大学に留学できたのは、当時竹鶴氏が勤めていた摂津酒造の社長、阿部喜兵衛氏の命があったからでした。
実地研修を望んでいた竹鶴氏は、1919年にスペイサイドのロングモーン蒸溜所でモルトウイスキーの製造方法を、ボーネスにあるジェームス・カルダー社の工場でグレーンウイスキーの製造方法を実習。1920年にはキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸溜所で、モルトウイスキーの製造方法とブレンド技術を習得しました。研修成果はすべて、2冊の「竹鶴ノート」にまとめられています。
ちなみに、かつての英国首相が、「頭の良い日本の青年が、1本の万年筆とノートでウイスキー造りの秘密を盗んでいった。」と、ユーモアと親愛の情を込めてスピーチしたという逸話が残っています。そのノートこそ、「竹鶴ノート」です。
竹鶴氏が書き記した2冊のノートは、スコッチウイスキーの歴史資料としても貴重な存在となっています。また日本の本格ウイスキー造りは、このノートをもとに発展していきました。
出典:ニッカウヰスキーサイト
スコットランドの環境によく似た余市に蒸溜所を設立
1934年(昭和9年)、竹鶴政孝氏は、スコットランドで学んだウイスキー造りを実現させるために、北海道余市町に余市蒸溜所を設立しました。スコットランドのような冷涼で湿潤な気候や、豊かな水源、澄んだ空気がそろっていて、キャンベルタウンにそっくりの余市町は、竹鶴政孝氏にとってまさに理想郷でした。さらに近くの石狩平野では、大麦麦芽にスモーキーさをもたらすピート(草炭)も採掘できました。
戦中の苦難を乗り越えて、待望の第一号ニッカウヰスキーが誕生したのは、スコットランド留学から約22年後の1940年(昭和15年)のことでした。
下向きのラインアームを持つストレートヘッド型のポットスチルで造られる余市モルトは、竹鶴政孝氏がめざしたとおり、重厚で力強いコクがあるのが特長です。余市モルトの唯一無二の個性は、日本のみならず世界中のウイスキーラバーから絶賛されています。
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個性の違う原酒を求めて宮城峡に第二の蒸溜所を築く
竹鶴政孝氏は、1969年(昭和44年)に宮城県内に第二の蒸溜所となる宮城峡蒸溜所を開設しました。新たに蒸溜所を設けた理由は、余市蒸溜所とは異なる個性を持つ複数の原酒をブレンドし、より味わい深く豊かなウイスキーを造るためでした。
宮城峡蒸溜所は、杜の都・仙台の西に広がる緑豊かな峡谷にあり、広瀬川と新川(にっかわ)という清流に囲まれています。日本各地に候補地があったなかで選定の決め手となったのは、一杯の水割りでした。竹鶴氏がこの地を初めて訪れた際、新川の水でブラックニッカを割って飲み、建設を即決したといわれています。
上向きのラインアームを持つバルジ型ポットスチルで生み出される宮城峡モルトは、華やかでフルーティーな味わいが特長。シングルモルトウイスキーとして人々を魅了するだけでなく、さまざまなブレンデッドウイスキーにその個性が活かされ、真価を発揮しています。
竹鶴政孝氏とサントリー鳥井信治郎氏との関係
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ニッカウヰスキーの竹鶴政孝氏とサントリーの創業者である鳥井信治郎氏はともに、日本のウイスキー造りの基礎を築き、ジャパニーズウイスキーの名を世界にとどろかせる道筋を作った立て役者です。鳥井氏もまた、「日本で本格ウイスキーを造りたい」という想いを抱いていました。
本格ウイスキーの到来を確信していた鳥井氏は、寿屋(サントリーの前身)の社長時代に、スコッチウイスキーの製造方法を知る唯一の日本人である竹鶴氏に声をかけ、1923年(大正12年)に蒸溜所の建設に着手しました。
1924年(大正13年)、日本初のウイスキー蒸溜所「山崎工場」が誕生し、竹鶴氏が工場長に就任。ウイスキー造りに没頭した竹鶴氏は、1929年(昭和4年)、ついに日本初となる本格ウイスキー「サントリー白札」を誕生させました。その後、1934年(昭和9年)に契約期限を終えた竹鶴氏は、自分の理想のウイスキーを造るために寿屋を退社し、北海道余市町へと旅立ちました。
1918年、竹鶴氏は摂津酒造の阿部社長の命を受けてスコットランドに留学しましたが、帰国後、戦争の影響によりウイスキー造りが認められず退社の決意を固めていました。そこへ絶妙のタイミングで訪ねてきたのが鳥井氏でした。鳥井氏の先見の明と理解がなければ、日本での本格ウイスキー造りは発展しなかったかもしれません。
竹鶴政孝氏の本物へのこだわりは、子供や子孫だけでなく、ニッカウヰスキーにも受け継がれている
出典:ニッカウヰスキーサイト
竹鶴政孝氏の本物のウイスキーに対する想いやパイオニア精神は、後世にも受け継がれています。
息子の威氏は父の意思を受け継いで、2代目マスターブレンダーとしてウイスキー造りに情熱を注ぎました。威氏が生み出した「フロム・ザ・バレル」は、樽出しブレンデッドウイスキーとして世界的な人気を誇ります。
孫の孝太郎氏もニッカウヰスキーに入社して約20年勤務し、商品開発やマーケティング、ブランディングに従事。その後独立して、さまざまな企業のブランディングを手がけ、近年は竹鶴政孝・リタ夫妻のブランディングにも取り組んでいます。
また、竹鶴政孝氏は、自身がスコットランドで叩き込まれたブレンド技術を、余市蒸溜所の技術者一人ひとりに徹底的に教え込みました。ブレンドの技と品質へのこだわり、本物を造り続ける伝統は、社内風土として確実に根づいています。
その証拠に、ニッカウヰスキーでは、竹鶴政孝氏の逝去後も、シングルモルトからカフェグレーンまで次々と高品質な本格ウイスキーを世に送り出し、世界的なウイスキー品評会で高く評価されています。
ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝氏は、日本のウイスキー史において大きな功績を残しました。機会があれば、竹鶴氏の情熱と信念に思いを馳せつつ、ニッカウヰスキーの本物へのこだわりが活きた銘柄を味わってみてくださいね。
製造元:ニッカウヰスキー株式会社
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