100年ぶりに大都会に蘇った酒蔵 〜東京港醸造〜

100年ぶりに大都会に蘇った酒蔵  〜東京港醸造〜

東京23区内唯一の酒蔵として注目を集める「東京港醸造(みなとじょうぞう)」。前身の「若松屋」は江戸時代、東京都港区芝に造り酒屋として創業したものの、明治時代に後継者問題等の理由から一度酒造業を廃業。しかし、一念発起した七代目によって同じ地で酒造りが復活。酒蔵を蘇らせるまでのお話をうかがいました。

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JR田町駅近くのオフィス街の一角に、向かい合わせに建つ酒蔵(右側)と直売所(左側)。

寺澤杜氏との運命の出会い

東京・台場の複合施設「アクアシティお台場」に、京都の大手日本酒メーカーが直営する醸造設備を備えたサケ・ブリュワリー・レストランがオープンし、港区商店街連合会のメンバーで視察した齋藤さんは、2006年、そこで杜氏(醸造責任者)を任されていた寺澤善実さんと出会いました。
52㎡の限られたスペースで日本酒を製造する様子を見学させてもらい、齋藤さんは「都心の自社ビルでも酒造りができるのではないか」と心が高鳴りました。

(齋藤さん)それまで数年間思い続けていた“酒蔵の復活“が、一気に現実的になり、すぐに寺澤に相談を持ちかけました。ところが、開口一番に「やめたほうがいいですよ、儲かりませんから」といわれてしまって(笑)。
というのも、寺澤のレストランはかなり経営に苦戦していたんですよね。採算が合わない現実を目の当たりにしていたのもあり、簡単に「それはいいですね」とはなりませんでした。

でも、私の中では「酒蔵をやりたい」という思いがさらに強くなり、それから毎月のようにお台場に足を運んで、寺澤と会い続けました。あのコンパクトな醸造所で酒造りに邁進する姿を見て、寺澤以外のパートナーは考えられなかったですね。

2009年にお台場のレストランと醸造所が閉鎖されることになり、ついに寺澤から一緒に酒蔵を再興してくれる返事をもらいました。そこから本格的に動き始めました。

「寺澤の最初の印象は“とにかく一生懸命によく働く杜氏”でしたが、それは今も変わりません。本当に働き者です。」(齋藤さん)

諦めずに追い続けた「清酒製造免許」

酒蔵の再興を目指して動き始め、まずは「清酒製造免許」の取得のために所轄の税務署に申請を試みたものの何度も却下されてしまい、2年後になんとか「その他の醸造酒」と「リキュール」の製造免許を取得。どぶろくの製造を開始します。
しかし、清酒造りを諦めきれず、さらに粘り強く申請を続け、5年後の2016年、念願の清酒製造免許を取得。二人の出会いから10年後、ついに酒蔵が復活しました。

(齋藤さん)最初に税務署に行った時には「無理無理!!」と門前払いされました。日本酒の売り上げが低迷していた影響で、国からは新規の清酒免許は発行しないという通達もあり、取得は不可能といわれていたんです。
でも、私たちの意思は固かったので簡単には引き下がれませんでした。何度も何度も足を運んで、2年後に、どぶろくとリキュールを製造できる免許を取得しました。

当時の様子を振り返る齋藤社長と寺澤杜氏。

(寺澤さん)日本酒メーカーを退職してから、東京港醸造でお酒を造るまでの数年間、冬は奈良県の梅乃宿酒造で酒造りを手伝い、夏は酒蔵を設立する準備をしながら、東京の酒類総合研究所で酒造りの研究開発を続けていました。どぶろくのレシピはほぼ完成していたので、2011年7月に免許を取得するとすぐに製造を始め、9月にはレセプションを開きお披露目をしました。

どぶろくの販売を無事スタートさせた頃、“酒蔵を復活させる”という目標は達成できたので、「これでもういいですか?」と社長に聞いたんです。もし、諦めずに清酒造りを目指し続けるのなら、さらに酒蔵の設備を本格的に整えていく必要がありましたし、私もそれまで続けていた他の酒蔵の手伝いを辞めて、この会社に骨を埋める覚悟で取り組まなくては難しいと思ったからです。
でも免許は下りていませんでしたし、取得できる目処も立っていなかったので、「今ならまだ引き返せますよ」と何度も問いました。
ところが、返ってくる応えは「行けるところまでやろう」と。
私もそこで腹を決め、二人でさまざまな策を練って挑戦し続けました。そして5年後の2016年に、ついに清酒製造免許を取得することができました。

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