長野・宮坂醸造「真澄」〜代々受け継がれ続けた酒造りへの情熱と新たな挑戦とは〜

長野・宮坂醸造「真澄」〜代々受け継がれ続けた酒造りへの情熱と新たな挑戦とは〜

長野県を代表する日本酒として真っ先に名前があがる銘柄「真澄」。“七号酵母発祥の酒蔵”として日本酒界の歴史に名を刻み、全国の日本酒ファンから厚い信頼を寄せられている醸造元の宮坂醸造を訪問し、伝統を守りながら、さまざまな変革を遂げてきたこれまでの歩みや、今後の新たな取組みについてお話をうかがいました。

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創業は江戸時代初期、ご宝物「真澄の鏡」が酒名に

諏訪を治める諏訪氏の家臣だった宮坂家の先祖が、刀を捨て、藩の御用酒屋に転じたのが1662年。八ヶ岳、南アルプスに連なる山々に囲まれた自然豊かな地で生まれた酒は評判を呼び、「松平忠輝公が愛飲した」「赤穂浪士の一人、大高源吾がその味を絶賛した」など、さまざまな逸話が残されています。
江戸後期には、諏訪大社上社のご宝物「真澄の鏡」から名をいただき、酒名を「真澄」と命名。創業以来350年以上、宮坂醸造が醸す酒は諏訪の地酒として愛され続けています。

日本酒ファンなら誰もが知る、信州を代表する地酒「真澄」。

日本酒ファンなら誰もが知る、信州を代表する地酒「真澄」。

蔵の歴史を変えた、先々代・宮坂勝氏

江戸末期から大正時代にかけては、経営難で厳しい局面を迎え、一時は廃業も思案した宮坂醸造でしたが、大正中期、先代の急死により二十代で家業を継ぐことになった宮坂勝氏(現社長・直孝氏の祖父)が、「一家円満に役立つ酒を造ろう」と意を固め、同年代の窪田千里氏を杜氏に抜擢し、全国の名門蔵を窪田氏とともに訪ね研鑽を積み、よりおいしい酒造りのために情熱を注ぎました。

(宮坂直孝社長)『祖父はとにかく旨い酒を造るための努力を惜しまず、東京の醸造試験所に何度も足を運び、また、全国の酒蔵をくまなく訪ね歩いたそうです。特に広島の賀茂鶴さんには非常によくしていただいて、酒造りから経営までさまざまなことを教わり、とても感謝していました。子供の頃、「広島県の悪口をいうと家から出すぞ」「賀茂鶴さんを呼び捨てにしたら勘当だ」と厳しくいわれた記憶が残っています。

とても真面目で日本酒に一途な人で、毎日、朝9時から自社の酒のほか、全国の酒をきき酒し、昼には泥酔して一度昼寝をし、夕方から再開。吐器に出してはいましたが、毎日2升近くきき酒をしていました。95歳で亡くなる数週間前まで欠かさず続けていたのは、やはり酒造りに対しての責任感が強かったのでしょう。祖父のことは今でもとても尊敬しています。』

後列左から4人目が窪田千里氏、右から3人目が宮坂勝氏。 直孝社長は尊敬していた祖父の一文字をもらい息子に「勝彦」と名付けました。

後列左から4人目が窪田千里氏、右から3人目が宮坂勝氏。
直孝社長は尊敬していた祖父の一文字をもらい息子に「勝彦」と名付けました。

昭和21年、「七号酵母」の発見

勝氏と窪田杜氏の二人三脚での努力が実り、「真澄」は全国新酒鑑評会で金賞受賞を重ねるようになりました。
優良酵母の発見に力を注いでいた国税庁醸造試験所は、品評会で好成績を修める真澄に着目。当時所長を務めていた山田正一博士は、真澄の醪(もろみ)から優秀な酵母を採取し「七号酵母」と命名。銘酒を生み出す酵母として多くの酒造メーカーに普及しました。
窪田杜氏は諏訪杜氏のリーダー的な存在となり、酒蔵には他社の杜氏や蔵人が勉強のために連日訪れたそうです。
発見から70余年が過ぎた今も、七号酵母は全国の6割を超える酒蔵で使用されています。

真澄の本拠となる「諏訪蔵」。勝氏と窪田杜氏は蔵人たちに清掃を徹底させていたそう。酒蔵に住み着いていた「蔵つき酵母」が七号酵母に。

真澄の本拠となる「諏訪蔵」。勝氏と窪田杜氏は蔵人たちに清掃を徹底させていたそう。酒蔵に住み着いていた「蔵つき酵母」が七号酵母に。

諏訪蔵の一角、かつて仕込みタンクが置かれていた場所には「七号酵母誕生の地」と刻まれた黒御影石の石板が埋められている。

諏訪蔵の一角、かつて仕込みタンクが置かれていた場所には「七号酵母誕生の地」と刻まれた黒御影石の石板が埋められている。

「真澄」ブランドの確立へ

勝氏から経営を引き継いだ息子の宮坂和宏氏(現・顧問)は、自社による配送システムへの変更やメディアでの広告展開、酒販店との直接取引や首都圏の市場の開拓、大阪万博の出展など、従来の業界の常識を覆す改革を次々に行いました。
また、「諏訪蔵」に続いて、八ヶ岳を望める自然環境に恵まれた高台に「富士見蔵」を設立し、酒質の向上や製造量を増加しました。

(直孝社長)『祖父は真澄の酒質を高める技術に力を注ぎましたが、父はマーケティングに注力し、「真澄」のブランドを確立しました。時代の先を読み、販売面も含めたさまざまな近代化を進めましたね。祖父と父の二人の努力がつながり、今の「真澄」の礎が作られたと思います。』

1982年(昭和57年)に諏訪郡富士見町に設立された富士見蔵。

1982年(昭和57年)に諏訪郡富士見町に設立された富士見蔵。

全国新酒鑑評会や国内外のコンクールなどで毎年高い評価を受けている。

全国新酒鑑評会や国内外のコンクールなどで毎年高い評価を受けている。

留学、百貨店勤務の経験を生かした改革

現在社長を務める直孝氏は、東京の大学を卒業後、米国の大学に留学。帰国後2年間の百貨店勤務を経て宮坂醸造へ入社、2006年に社長に就任しました。地元長野で親しまれていた真澄は、全国、そして海外へとファンを拡大していきました。

(直孝社長)『私が宮坂醸造へ入社した83年は、生産した9割近くが県内で消費されていました。造っていたのは圧倒的に普通酒が多く、地元の方たちに根強く支持され、経営も安定していました。

数年後、首都圏の得意先を担当するようになると、東京で売れている他社の優れた酒を知り、また、業界内で純米酒化が進む傾向や、真澄が県外の皆さんには知られていないことなど、長野にいると気づけなかった現状を目の当たりにしました。危機感を感じ、先代に「特定名称酒」の割合を増やすことを提案。酒質の向上をさらに強化し、販路を広げていきました。のちの日本酒低迷期は、うちも石数(生産量)こそ減ってはいきましたが、特定名称酒の比率は年々上がっていきました。』

富士見蔵には精米機が8台あり、原料米は全量自社で精米を行っている。

富士見蔵には精米機が8台あり、原料米は全量自社で精米を行っている。

(直孝社長)百貨店時代は、婦人服の部門に配属されましたが、婦人服売り場は季節性があり移り変わりが早いのに、日本酒の販売の世界には季節感がないことに違和感を感じ、当時「生酒」や「搾りたて」などが出始めていたので、季節商品として販売しました。

また、米国留学時代、大学でのケーススタディで日本酒の国際化について研究しましたが、その経験を生かし、展示会の出展や子会社の設立など海外進出も始めていきました。他社に比べると早かったように思います。
こうして振り返ると、過去の経験がさまざまな場面で生きていきましたね。』

97年、酒蔵の一角にオープンした蔵元ショップ「セラ真澄」。

97年、酒蔵の一角にオープンした蔵元ショップ「セラ真澄」。

宮坂醸造のアイデンテティとは

直孝社長の長男・勝彦さんが宮坂醸造に入社したのは2013年。大学卒業後、2年間の百貨店勤務ののち、イギリスの会社で1年間日本酒のインポート会社に勤め、長野に戻りました。
父と同じく百貨店時代は婦人服部門を担当。その後、海外の日本酒事情も体験したことで、勝彦さんは“流行に左右されないものづくり”への思いが高まりました。

(勝彦さん)『百貨店時代、お客さんに支持され続けているアパレルブランドの共通点を現場で見てきたことは、とても勉強になりました。
イギリスでは他社の日本酒と真澄の違い、真澄の個性や背景について徹底して向き合う機会を得られたのですが、蔵に戻ると、うちで造るお酒が、トレンドの「香りが高いタイプ」が主流で、「七号酵母の酒本来の素晴らしさ」を生かしきれていないことに、自分の中で違和感を感じました。

東京時代、奈良県の油長酒造「風の森」を初めて飲んだときに、その味わいに大きな衝撃を受けたのですが、その後、蔵元の山本嘉彦さんとお会いしたときに、「風の森」はすべて七号酵母で仕込んでいると聞き、七号酵母の酒造りについて詳しく教えてもらい、ポテンシャルの高さを再認識しました。

七号酵母は派手さはないけれど、飲み飽きすることなく、また、料理に寄り添えるお酒ができる。
調和のとれた味わいのお酒を醸す七号酵母が生まれたのは、宮坂醸造が歩んできた歴史であり大切なストーリー。七号酵母だけで酒を造りたいと強く思いました。』

七号酵母を培養した酒母。バナナのような香りが特徴。

七号酵母を培養した酒母。バナナのような香りが特徴。

原点回帰の酒造りを

勝彦さんが「今後は七号酵母で酒造りをしていきたい」と伝えたところ、社長や杜氏たちは「酒質が大きく変わってしまう」と答え、賛同は得られませんでした。しかし、時間をかけて話し合いを重ねるうちにできあがった試作品の試飲を社内で繰り返すと、七号酵母で醸した酒の評判はよく、次第に七号酵母での酒造りに移行していくという意見に賛同が集まり始めました。

(直孝社長)『初めに聞いた時はすぐには賛成できなかったですが、実際に試作品を味わうと、たしかに飲みやすくて、私は七号酵母の酒を飲むようになってから、以前よりも酒量が増えました。

かつて、自分が若い頃に商品を変え始めた時、祖父や父、蔵人との軋轢がありましたが、そこを突破したところに真澄の発展があり、日本酒業界の不況を乗り越えることにつながっていったと思っています。

若い彼が感じた改革意識はたしかに正しいと思い、今は宮坂醸造が一つになって、七号酵母での酒づくりへ原点回帰しています。』

「蔵のチームワークはとてもよく、みんなでおいしいお酒を造る目標に向かって一つになっています」(勝彦さん)

「蔵のチームワークはとてもよく、みんなでおいしいお酒を造る目標に向かって一つになっています」(勝彦さん)

新しい「真澄」へ

すべての酒造りを一気に変えることは難しいため、06年に立ち上げた「みやさか」シリーズを七号酵母を使用してリブランディングする形で16年に「MIYASAKA」をリリース。その後、真澄シリーズでは「真朱」「漆黒」「茅色」や「スパークリング清酒」など新たなラインナップも増え、2019年度は95%のお酒に七号酵母を使用し、100%の達成も目前となりました。

(勝彦さん)『新しく生まれたシリーズは、従来とは違う新たな製法を取り入れ、七号酵母の可能性をさらに追求しています。
また、スパークリング清酒は富士見蔵の中野杜氏からの発案でしたが、米の旨みを感じられて、ボリュームのある料理とも非常によく合う仕上がりで今後がたのしみな商品です。

スパークリング清酒を造る途中の滓(おり)を下げる工程は、一部の高級シャンパーニュの製法(手作業のルミュアージュ)を取り入れ、毎日90度ずつボトルを回している。

スパークリング清酒を造る途中の滓(おり)を下げる工程は、一部の高級シャンパーニュの製法(手作業のルミュアージュ)を取り入れ、毎日90度ずつボトルを回している。

富士見蔵の中野杜氏の独創で生まれたスパークリング清酒は、食中酒としての評価が高い。

富士見蔵の中野杜氏の独創で生まれたスパークリング清酒は、食中酒としての評価が高い。

(勝彦さん)『「酒米」や「仕込み水」が、「体格」や「身長」で体型をつくるものだとすると、酵母は「衣服」のように思うんです。七号酵母は派手さがなくシンプルで、着ている人がそのまま表現される服。それだけに、酒造りの工程一つひとつすべてに気が抜けません。
丁寧に造りあげた「上質な普段着」のようなお酒を目指して、飲む人たちの生活に寄り添いたいですね。

日本酒は、人と人が心を交わすツールであり、そしてその地域を象徴するメディアのような役割もあると思っています。自然豊かな諏訪の結晶である日本酒が、今と未来をつないでくれることを願い、「人 自然 時を結ぶ」というメッセージを込めてお酒を送り出していきたいと思っています。』

変化を恐れず、むしろ前向きに革新を続けてきた宮坂醸造には、より品質の高い日本酒を生み出すために、たゆまぬ努力を続けたかつての当主たちの情熱が脈々と受け継がれてきました。
「蔵つき酵母」から誕生した七号酵母は、先祖が注いだ日本酒への熱い想いがあったからこそ生まれた、エネルギーに満ちた酵母に違いありません。

宮坂醸造株式会社

宮坂醸造株式会社
https://www.masumi.co.jp


MIYASAKA
http://miyasaka-sake.jp

ライタープロフィール

阿部ちあき

日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会認定 きき酒師 日本酒・焼酎ナビゲーター公認講師
全日本ソムリエ連盟認定 ワインコーディネーター

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