100年ぶりに大都会に蘇った酒蔵 〜東京港醸造〜
東京23区内唯一の酒蔵として注目を集める「東京港醸造(みなとじょうぞう)」。前身の「若松屋」は江戸時代、東京都港区芝に造り酒屋として創業したものの、明治時代に後継者問題等の理由から一度酒造業を廃業。しかし、一念発起した七代目によって同じ地で酒造りが復活。酒蔵を蘇らせるまでのお話をうかがいました。
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薩摩藩の御用商人として栄えた「若松屋」
1812年、信州信濃の飯田藩の御用商だった「若松屋」の次男、林金三郎は、酒造りに通じた齋藤重三郎を連れて江戸に居を移し、現在の東京都港区芝の地に造り酒屋を開業しました。
当時、付近には蔵屋敷が立ち並び、また、近くには「雑魚場」と呼ばれる魚市場もあり、界隈はとても活気に満ちていたといわれています。
やがて若松屋は創業者の林氏から齋藤家に引き継がれ、二代目の齋藤茂七氏が当主の時代には薩摩藩の御用商となりました。大屋敷だった若松屋の奥座敷には東京湾に通じる水路があったことから、隠密に会合を持つには格好の立地だったため多くの要人たちの密談の場となり、西郷隆盛、勝海舟、山本鉄舟といった幕末の動乱期に活躍した名士たちが若松屋に頻繁に訪れていたそうです。
三代目の茂吉氏が早逝した後、かつて大奥に勤めていた経験を持つ、妻・しもが若松屋を切り盛りし、その後を受け継いだ四代目の茂吉氏は「東京酒造組合」を設立。
初代組合頭首を勤め大きな功績を残しました。
明治33年の写真。左から二番目の女性が、三代目の妻・しも。
東京酒造組合から齋藤茂吉氏に贈呈された感謝状。
1911年(明治44年)酒造業を廃業
日清・日露戦争の時代には戦費をまかなうために多額の酒税が徴収され経営が困難となり、さらに四代目の齋藤茂吉氏が亡くなると、若松屋には一人娘のツル氏だけが遺されることになり、やむなく酒造業を廃業することに。
その後、ツル氏は長野県の酒蔵の三男を婿養子を迎えますが、戦後の若松屋は物販・雑貨屋業を中心とした事業を営み、現在七代目となる齋藤俊一さんへと継承されました。
西郷隆盛らが寝泊まりしていた裏座敷の前で写真に収まるツル氏(一番右)
心に芽生えた酒蔵復活への思い
現在、(株)若松の代表取締役を務める齋藤俊一さんは、今から約20年前、港区商店街連合会の役員を務めることになり、地域の活性化への取り組みの一環として、全国の商店街を視察しました。
多くの街で、郊外のショッピングセンターに客足が流れ、駅前の商店街が「シャッター通り」と化したのを目にする中、その地で古くから酒造りを行っている酒蔵には人が集まり、蔵元が地元の名士として地域に貢献している様子を知り、地域での酒蔵の存在の大きさに気づきました。
(齋藤さん)全国各地を視察した際、酒蔵が観光スポットになっていたり、土産物屋に行くと地酒が並んでいるのを見て、酒蔵がその地域でとても大切な役割を担っていることに気が付きました。昔から、蔵元は地元の名士が多いといわれていましたが、実際に地方に行ってみてそれを実感しましたね。
かつて私の先祖が造り酒屋を営んでいたのは知っていたので、最初は漠然と「酒蔵を復活できたらな」と思いました。しかし、そのためには広い敷地や資本を要するなどの現実面を具体的に考えると、「そんなに簡単にできる訳ないよな」と、どこか諦めてしまっていました。
ただ、物販を続けていた中で、ネット通販が徐々に普及し始めてきたことで今後の雑貨業の存続に危機感を感じ始め、一方で、ギフト商品の売れ行きには手応えがあり、東京らしいお土産や立派な贈答品となるような商品を作りたいと思っていました。
以前、地方を視察に行ったときに見た土産物屋の地酒が思い浮かび、「できるものなら東京の地酒でギフトを作りたい」と強く思いましたね。
そんな頃、今、弊社で杜氏を務めている寺澤と出会ったんです。
JR田町駅近くのオフィス街の一角に、向かい合わせに建つ酒蔵(右側)と直売所(左側)。
寺澤杜氏との運命の出会い
東京・台場の複合施設「アクアシティお台場」に、京都の大手日本酒メーカーが直営する醸造設備を備えたサケ・ブリュワリー・レストランがオープンし、港区商店街連合会のメンバーで視察した齋藤さんは、2006年、そこで杜氏(醸造責任者)を任されていた寺澤善実さんと出会いました。
52㎡の限られたスペースで日本酒を製造する様子を見学させてもらい、齋藤さんは「都心の自社ビルでも酒造りができるのではないか」と心が高鳴りました。
(齋藤さん)それまで数年間思い続けていた“酒蔵の復活“が、一気に現実的になり、すぐに寺澤に相談を持ちかけました。ところが、開口一番に「やめたほうがいいですよ、儲かりませんから」といわれてしまって(笑)。
というのも、寺澤のレストランはかなり経営に苦戦していたんですよね。採算が合わない現実を目の当たりにしていたのもあり、簡単に「それはいいですね」とはなりませんでした。
でも、私の中では「酒蔵をやりたい」という思いがさらに強くなり、それから毎月のようにお台場に足を運んで、寺澤と会い続けました。あのコンパクトな醸造所で酒造りに邁進する姿を見て、寺澤以外のパートナーは考えられなかったですね。
2009年にお台場のレストランと醸造所が閉鎖されることになり、ついに寺澤から一緒に酒蔵を再興してくれる返事をもらいました。そこから本格的に動き始めました。
「寺澤の最初の印象は“とにかく一生懸命によく働く杜氏”でしたが、それは今も変わりません。本当に働き者です。」(齋藤さん)
諦めずに追い続けた「清酒製造免許」
酒蔵の再興を目指して動き始め、まずは「清酒製造免許」の取得のために所轄の税務署に申請を試みたものの何度も却下されてしまい、2年後になんとか「その他の醸造酒」と「リキュール」の製造免許を取得。どぶろくの製造を開始します。
しかし、清酒造りを諦めきれず、さらに粘り強く申請を続け、5年後の2016年、念願の清酒製造免許を取得。二人の出会いから10年後、ついに酒蔵が復活しました。
(齋藤さん)最初に税務署に行った時には「無理無理!!」と門前払いされました。日本酒の売り上げが低迷していた影響で、国からは新規の清酒免許は発行しないという通達もあり、取得は不可能といわれていたんです。
でも、私たちの意思は固かったので簡単には引き下がれませんでした。何度も何度も足を運んで、2年後に、どぶろくとリキュールを製造できる免許を取得しました。
当時の様子を振り返る齋藤社長と寺澤杜氏。
(寺澤さん)日本酒メーカーを退職してから、東京港醸造でお酒を造るまでの数年間、冬は奈良県の梅乃宿酒造で酒造りを手伝い、夏は酒蔵を設立する準備をしながら、東京の酒類総合研究所で酒造りの研究開発を続けていました。どぶろくのレシピはほぼ完成していたので、2011年7月に免許を取得するとすぐに製造を始め、9月にはレセプションを開きお披露目をしました。
どぶろくの販売を無事スタートさせた頃、“酒蔵を復活させる”という目標は達成できたので、「これでもういいですか?」と社長に聞いたんです。もし、諦めずに清酒造りを目指し続けるのなら、さらに酒蔵の設備を本格的に整えていく必要がありましたし、私もそれまで続けていた他の酒蔵の手伝いを辞めて、この会社に骨を埋める覚悟で取り組まなくては難しいと思ったからです。
でも免許は下りていませんでしたし、取得できる目処も立っていなかったので、「今ならまだ引き返せますよ」と何度も問いました。
ところが、返ってくる応えは「行けるところまでやろう」と。
私もそこで腹を決め、二人でさまざまな策を練って挑戦し続けました。そして5年後の2016年に、ついに清酒製造免許を取得することができました。
銘柄名は江戸無血開城にちなんで「江戸開城」と命名した。
4階建てビルを酒蔵に改装
東京港醸造の酒蔵は、齋藤さんが住居としていた敷地22坪の4階建のビルを改装。酒造りの工程に合わせて階下に降りていく、作業効率を考えた構造です。
酒米を蒸す甑(こしき)は、4階の屋根のあるベランダに設置。麹室も同じく4階にあり、熱を生むものを最上階へ。
3階には仕込タンクの一部と分析室と事務室を置き、2階には仕込タンクと搾り機、1階は火入れ作業や貯蔵、出荷作業を行うスペース。
重たい醪(もろみ)の移動は床に穴を開け、ホースを通して階下へ移動させるなど工夫が凝らされています。
酒米を蒸す甑。4階のベランダで蒸気が立ち上ります。
(寺澤さん)小さな酒蔵でコンパクトに仕込む造りは、台場のミニブリュワリーでの9年間の取り組みが生かされていて、また、それ以前の京都時代に、逆に大規模な仕込みで酒造りをしていたことも、製造や運営の面でとても役立ちました。これまでの自分の経験値を基に、今の酒造りのベースができあがりました。
1年を通して酒を造る四季醸造で、週に一度仕込みを行い、小ぶりのタンクで年間50回仕込んでいますが、一つひとつ丁寧に観察しながら酒造りをしています。
「自分が麹だったら、あるいは酒母だったら、どんな環境が望ましいか」を考えて、微生物の立場を常に意識していますが、これは酒造りの上でとても大切なことです。
毎回の仕込みでタンクの中がどんな状態かを把握することは、すべて自分の知識になります。経験値が増えるのは酒造りにおいてとても幸せなことなんです。
コンパクトなサイズの麹室は動きやすい設計に。
酵母は数種類を使い分けているが、どの協会酵母よりも古く発見された「yedo酵母、tokyo酵母」を使用することも。
都心で生まれた「東京の地酒」
20年前に初めて抱いた酒蔵復活の夢が実現して4年目。酒蔵としての経営も軌道に乗り、存続してく見通しがたったと齋藤さんは穏やかに語ります。
(齋藤さん)最初はいろいろな人たちから、「絶対に採算が合わないから酒蔵なんてやめた方がいい」といわれていましたが、お陰さまで継続していけそうです(笑)。
「東京の地酒」として、個人や企業のお土産品としての反響も大きくうれしい限りです。
酒造りのことはすべて寺澤に任せてきましたが、彼は本当に知識が豊富で努力家。私は経営者としての今後の自分の成長は、寺澤を応援することだと思っています。
彼は、自分が培った醸造技術や、コンパクトなブリュワリーの設備をパッケージ化していく夢があるので、その実現を見守りたいですね。
かつて、信州から上京した二人の男性が立ち上げた酒蔵「若松屋」は、一度廃業するも、100年の時を経て、再び二人の男性によって蘇りました。
時空を超えて受け継がれた酒造りへの熱い情熱は、これからもおいしい日本酒を醸し続けることでしょう。
酒蔵の前にはテイスティングカーがあり、一杯350円〜。気軽に角打ちをたのしめます。
「できたてのお酒を味わえる」と連日客足が絶えない人気ぶり。近隣の飲食店からのテイクアウトや持ち込みもOK。
東京港醸造
東京都港区芝4−7−10
http://tokyoportbrewery.wkmty.com
テイスティングカー 営業時間
月〜金 18:00〜21:00
土 13:00〜19:00
ライタープロフィール
阿部ちあき
全日本ソムリエ連盟認定 ワインコーディネーター