「洋酒天国」はウイスキー文化を普及させたPR誌の先駆け
「洋酒天国」は、ある世代以上のウイスキー愛好家なら、聞いただけで懐かしくなる言葉では? 「洋酒天国」はサントリーが日本に洋酒文化を普及させるために発刊したPR誌で、「洋酒天国」をたのしみに「トリスバー」に足を運んだ人も少なくなかったとか。日本のウイスキー史に残る「洋酒天国」を紹介します。
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「洋酒天国」はサントリーがウイスキー文化を広めるため発刊
出典:サントリーサイト
「洋酒天国」は昭和の高度成長期にサントリーが発刊
「洋酒天国」は、日本初の国産ウイスキーを発売したサントリーが、戦後の日本にウイスキー文化・洋酒文化を根づかせるべく創刊。昭和31年(1956年)から39年(1964年)まで、61号にわたって発刊されました。
昭和30年代と言えば、高度成長期のまっただなか。生活が豊かになるとともに、かつては“高根の花”だったウイスキーなどの洋酒が少しずつ身近なものになっていきました。ウイスキーの歴史や、粋(いき)なたのしみ方を、さまざまな海外文化とともに発信した「洋酒天国」は、仕事帰りにバーでウイスキーをたのしむという文化を定着させるうえで、少なからぬ役割を果たしたのです。
「洋酒天国」は業界PR誌の先駆け的な存在
「洋酒天国」は、酒造メーカーであるサントリーが、自社の商品であるウイスキーの魅力を広く発信するために発刊した、今で言うところの「PR誌」に当たります。
「洋酒天国」が発刊された当時、活字文化を通じて商品の認知度やイメージを高めようという取り組みは非常に珍しく、斬新なものでした。「洋酒天国」は、業界PR誌の先駆けであると同時に、いかにウイスキーが文化的側面のある飲み物かを物語っているとも言えるでしょう。
「洋酒天国」に結集した先進クリエイターたち
出典:サントリーサイト
「洋酒天国」に関わった昭和のクリエイターたち
「洋酒天国」の編集責任者は、サントリー(当時の社名は「寿屋」)の宣伝部に所属していた開高健氏。のちに小説家として芥川賞を獲得した開高氏は、トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」をはじめ、数々の名キャッチコピーで知られています。
「洋酒天国」の編集には、開高氏だけでなく、のちに直木賞作家となった山口瞳氏や、名キャラクター「アンクルトリス」を生んだイラストレーター・柳原良平氏など、昭和を代表する名クリエイターが参加。そのセンスあふれる誌面は、ウイスキーともに、“オトナの嗜(たしな)み”として多くのファンに支持されました。
「洋酒天国」のセンスあふれる誌面作り
「洋酒天国」の誌面は、センスあるデザインのもと、ウイスキーなど洋酒にまつわる知識はもちろん、その背景となる海外の食文化やバー文化、洋酒にまつわる小説やエッセイ、紀行文も掲載されるなど、非常に読み応えのあるものでした。
お酒はただ飲んで酔っ払うものではなく、文化的な知識に裏づけられた洒脱な会話とともにたのしむもの。そんなウイスキーのたのしみ方を、「洋酒天国」から教わったという人も少なくないでしょう。
「洋酒天国」の魅力や歴史は、その編集に携わった小玉武氏の著書「『洋酒天国』とその時代」がちくま文庫から刊行されています。興味のある人は一読してみてはいかがでしょうか?
『洋酒天国』とその時代
「洋酒天国」を広めた「トリスバー」と「トリスブーム」
出典:サントリーサイト
「洋酒天国」を読むならトリスバーへ
「洋酒天国」は、書店で流通していたわけではなく、サントリーが全国の盛り場に展開していた「トリスバー」の店内で読むことができました。
「トリスバー」は、サントリーの2代目社長・佐治敬三氏が、サラリーマン層をターゲットとした“庶民の酒場”として生み出したもの。ピーク時の1960年代には全国で2千件を数え、第一次洋酒ブームの牽引役として知られています。
「トリスハイボール」の人気は今もなお健在
「トリスバー」の主役は、その名の通り、サントリーの「トリスウイスキー」。戦後間もないモノ不足の時代に「安くてもしっかりした品質のお酒を飲んでもらいたい」との想いで生み出された銘柄です。
「トリスバー」で提案されたハイボールは、アルコール度数の高いウイスキーを気軽にたのしめる飲み方として人気を獲得。「トリス」は今もなおロングセラー商品として、「トリスハイボール」とともに愛され続けています。
「洋酒天国」は「トリスバー」や「アンクルトリス」とともに、高度成長期の第一次洋酒ブームを知る人にとっては忘れがたい存在でしょう。時には「洋酒天国」を愛読していた人生の先輩たちとともに、ウイスキーグラスを傾けてみてはいかがでしょうか?