時代の一歩先を行く販売戦略で出荷数を伸ばし続ける 長野・遠藤酒造場

時代の一歩先を行く販売戦略で出荷数を伸ばし続ける 長野・遠藤酒造場

“日本酒ブーム”といえど、年々消費量は減り、各蔵の出荷数が減り続けるなか、18年連続で出荷数量を増やし続けている遠藤酒造場。35年前、わずか500石の出荷量だった蔵を受け継ぎ、現在5500石にまで増石、信州屈指の銘酒を生み出した遠藤社長に、これまでの歩みをお聞きしてきました。

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須坂藩に献上していた銘酒「養老正宗」

遠くにアルプス連峰を望み、いくつもの高原が広がる自然豊かな須坂市は、江戸時代、須坂藩主堀氏の館町として栄えました。1864年、庄屋を営んでいた遠藤徳三郎氏が各地を行脚していた際、おいしい日本酒に感銘を受け、「地元でも旨い酒を」との思いから自身でも酒造りを始め、酒造業がスタート。藩主に命名された「養老正宗」は評判の酒となり、献上酒として納められました。廃藩置県の後は須坂藩主跡地に会社を構え、現在に至ります。

本社のすぐ裏手にある奥田神社は、須坂藩主を祀った神社

本社のすぐ裏手にある奥田神社は、須坂藩主を祀った神社。かつて須坂藩居館だった地です。

父の急死で酒蔵に

現在社長を務めるのは六代目の遠藤秀三郎さん。地元の高校を卒業後、東京の大学へ進学。当初は酒蔵を継ぐ意思はなく、伝統産業で古くから伝わる技術で行う酒造業とは真逆の、最先端の工業技術について学んでいたそうです。
ところが、大学三年生の時に先代の父が急死。当時は経営状況から事業を縮小していたこともあり、このまま酒蔵を廃業する選択肢もありましたが、残された家族のことや、長男として生まれた責任感などから、自らが六代目となることを決意。大学を中退して故郷の須坂に戻りました。

社長業も酒造業もゼロからの出発

明るく爽やかな笑顔が印象的な遠藤秀三郎社長

明るく爽やかな笑顔が印象的な遠藤秀三郎社長。社員を叱ったことがないというほど、おおらかで懐の深い六代目です。

しかし、酒蔵に戻って社長に就任したものの、つい先日まで工業技術を研究する大学生であり、さらに先代から酒造業について何も学んでいなかったことから、社長業と酒造りの両方を一から学び始めた遠藤さん。思いもかけない形で飛び込んだ世界は、苦労の連続だったと語ります。

「お酒ができても、税務署に提出する酒税の出し方もわからず、きき酒の仕方も一から教わらないといけないほど酒の知識はありませんでした。酒蔵の仕事もとにかく大変で、蔵の人たちは、日本酒を造るためにこんなことをずっと続けてきたのかと衝撃を受けました」。

当時、遠藤酒造場のお酒を扱う販売店は2軒しかなく、何軒もの酒屋に足を運んで必死に営業する毎日が続きました。「なぜうちの酒は売れないのか」。数少ない親しい付き合いのある酒販店から酒質へのアドバイスをもらい、酒蔵でそれを伝えようとするにも、従業員のほとんどは先代の父と同世代。さらに、酒造りの責任者を務めていた当時の杜氏は、酒造りへ意見されることを嫌がる昔気質の職人だったこともあり、なかなか受け入れてもらえず、遠藤社長は苦しい日々を過ごしました。

同級生を杜氏に抜擢、新ブランド「渓流」の誕生

数年が過ぎた頃、当時の杜氏が退職することになり、遠藤社長は中・高時代の同級生だった友人の勝山氏に声を掛け、蔵に迎えました。「勝山は体育教師を目指していたのですが、“一緒に日本酒を造ってみないか”と誘いました。酒造りは肉体労働ですが、日体大出身の彼なら大丈夫だろうと(笑)」。

日本酒造りは未経験だった勝山氏ですが、長野県の食品工業試験場の先生の技術指導の元、それまで前杜氏の時には造られなかった“大吟醸“の製造に取り組みます。

「前杜氏は品評会の出品に一切興味がなく、酒は二級酒をメインに造っていました。勝山が杜氏になり、酒の味が変わったことを酒販店に訴えても、以前の酒のイメージが強くそれを崩すのは難しかった。そのため、創業時からこれまでの看板商品だった「養老正宗」をやめ、新たに「渓流」という新ブランドを立ち上げました」。

ブランド力を高めるためには第三者の評価が必要と考え、積極的に品評会に出品したところ、初めて大吟醸を醸した翌年、長野県知事賞を受賞。さらに、関東信越国税局、全国新酒鑑評会など全国レベルの鑑評会でも金賞を受賞するなど実力が認められ、「渓流」は信州の人気の地酒となっていきました。

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