酒類鑑定官出身の蔵元が醸す、個性が光る美酒「下越酒造」

酒類鑑定官出身の蔵元が醸す、個性が光る美酒「下越酒造」

新潟県内でも有数の自然豊かな銘醸地で酒を醸す下越酒造は、親子二代で国税局酒類鑑定官出身者が当主を務める醸造技術のベテランの蔵。新潟清酒をベースに、さまざまな切り口で個性あるお酒を生み出す酒蔵に伺い、お話を聞いてきました。

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かつて700年間会津藩領だった地

新潟県の東端、東蒲原郡阿賀町に蔵を構える下越酒造は、1880年(明治13年)に創業。福島県会津地方との県境に位置しており、1886年(明治19年)に新潟県に編入されるまでは、約700年の間会津藩領だったため、会津地方の生活習慣や食文化などの風土も感じられる、新潟県内でも珍しい地域です。

かつては、会津若松と新潟とを結ぶ会津街道の宿場町で、北前船の寄港地だった新潟と会津との舟運での重要な港として賑わった街でした。

創業当時の造酒石検査簿には「福島縣」と記されています。

創業当時の造酒石検査簿には「福島縣」と記されています。

父子二代にわたり元国税局酒類鑑定官

現在社長を務めるのは、5代目の佐藤俊一さん。東京大学農学部農芸化学科 微生物利用学教室で修士課程、博士課程を修め、その後国税庁へ入庁。東京・滝野川の国税庁醸造試験場、東京国税局、金沢国税局、関東信越国税局で酒類鑑定官を歴任し、酒類製造業者へ最先端の醸造技術の指導を行ってきました。じつは、先代の父・平八さんも、同じく、国税局酒類鑑定官の出身。親子二代で鑑定官の経歴を持つ蔵元は珍しく、全国を見渡しても下越酒造だけといわれています。

1993年に鑑定官の職を退き、下越酒造に入社。それまで全国の酒蔵に指導を行っていた鑑定官の立場から、蔵元の製造部長として酒造りに携わり始めました。「国税庁には17年間いましたが、退職することに未練はなかったです。父からはとくに「戻ってきてくれ」とはいわれなかったですが、どこかお互いの間に“あうんの呼吸”のようなものがありましたね。ちょうどいいタイミングだったのだと思います」と振り返りました。

国税庁時代は全国の酒蔵に技術指導などを行っていた佐藤俊一社長。

国税庁時代は全国の酒蔵に技術指導などを行っていた佐藤俊一社長。

“感覚”から“データ重視”の酒造りへ

最先端技術の指導を行ってきた酒類鑑定官の経験を生かして、それまで行われてきた下越酒造での酒造りを見直し、さまざまな取り組みを始めた佐藤社長。まずは、酒造りを目に見える形にするために『数値化』することからスタートしました。

それまでは杜氏(製造の最高責任者)や蔵人たちの『感覚』で行うことが多かった製造を、細かく観察するだけでなくデータを取って分析。現在はコンピューターを導入したデータ管理のもとに酒造りを行う酒蔵がほとんどですが、25年前はまだそこまでの取り組みをしていないところも多かったなか、数値をしっかりと把握して酒造りを行いました。

それにより、麹の酵素力価(りきか)や酒米の水分管理などを細かく数値で把握することで、よりクリアな味わいのお酒を生み出すことに近づくことができたそうです。しかし、感覚からデータ重視の酒造りへの移行は必ずしもスムーズに進んだわけではなかったと話す佐藤社長。「当時の杜氏は年上だったこともあり、蔵に戻ったばかりの自分が「こうした方がいい」と、強くいえないところもありました」。


しかし、「データを取って分析をすることは、安定してよい日本酒を造り続けるための必要条件」と考える佐藤社長の思いは強く、こまめな計測を絶やすことなく続けて分析し、その結果を酒造りに生かしてきました。「データがあることで、その酒の味わいがどのようにして生まれたかの裏付けとなり、その後の酒造りの修正点や改善策に生きます。おいしいお酒ができる確証に繋がっていくので、非常に大切なのです」と、データに基づいた酒造りの重要性を話してくれました。

計測したデータを元に分析し、よりよい酒質を生み出すための改善を繰り返してきました。

計測したデータを元に分析し、よりよい酒質を生み出すための改善を繰り返してきました。

酒類鑑定官を退任後も、新人の鑑定官が泊まり込みで佐藤社長のもとに研修に訪れ指導を仰いだことも。酒蔵内の会議室では現在も勉強会や講演などを行っているそうです。

酒類鑑定官を退任後も、新人の鑑定官が泊まり込みで佐藤社長のもとに研修に訪れ指導を仰いだことも。酒蔵内の会議室では現在も勉強会や講演などを行っているそうです。

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