『夏子の酒』は日本酒漫画の金字塔【日本酒用語集】
『夏子の酒』とは、日本酒造りの世界を描いた尾瀬あきら氏作の名作漫画です。テレビドラマ化もされ、一般の読者だけでなく蔵元関係者にも影響を与えたといわれています。今回は作品の内容に加え、影響を受けた蔵元やモデルとなった蔵元、それぞれが醸す銘柄などを紹介します。
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『夏子の酒』はどんな作品か、その概要からみていきましょう。
『夏子の酒』は日本酒造りを描いた名作漫画
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『夏子の酒』は、昭和63年(1988年)から平成3年(1991年)にかけて講談社の青年漫画誌『モーニング』で連載された尾瀬(おぜ)あきら氏の作品です。
主人公の佐伯夏子(さえきなつこ)が、兄の遺志を継ぎ、志を同じくする仲間たちと日本一の酒造りにまい進していくストーリーは、多くの読者を魅了。発行部数385万部のヒット作となり、和久井映見(わくいえみ)さん主演でテレビドラマ化もされました。
さらに海外でも評判となり、台湾や韓国のほか、2019年からはワイン大国フランスでも翻訳版の刊行がスタート。2022年には、同国で毎年開催されているヨーロッパ最大級の漫画イベント「アングレーム国際漫画祭」の公式部門にノミネートされています。
『夏子の酒』は日本一の酒をめざす造り手たちの物語
東京でコピーライターとして働いていた夏子が、新潟県の実家「佐伯酒造」に戻るきっかけとなったのは、兄・康男(やすお)の死でした。
佐伯酒造の専務を務めていた康男の夢は、「まぼろしの米」といわれる「龍錦(たつにしき)」を復活させて日本一の吟醸(ぎんじょう)を造ること。しかし志半ばで病に倒れ、ようやく入手したわずかばかりの「龍錦」の種もみを、杜氏(とうじ)に託して帰らぬ人となりました。
夏子は、兄の夢を受け継ぐことを決意し帰郷。「龍錦」の種もみを増やすところから、日本一をめざす夏子の酒造りがスタートします。
当初の同志は、理解者であり夏子の利き酒(唎き酒)の能力も認めている杜氏だけ。夏子は持ち前の明るさと行動力で一人ひとり仲間を増やし、次々と立ちはだかる壁を乗り越えていきます。
「じっちゃん」こと杜氏の山田、兄の後輩・草壁(くさかべ)、同級生の冴子(さえこ)、ライバル「美泉(びせん)」の蔵元・内海(うつみ)など、夏子を取り巻くキャラクターも魅力的で、ストーリーに彩りを添えています。
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『夏子の酒』は日本酒入門にもぴったりな漫画
『夏子の酒』の魅力は、物語のなかで、日本酒造りに関連する専門用語などが、わかりやすく説明されている点も挙げられます。
複雑な日本酒の製造方法などもイメージしやすく、絵柄とセリフで表現する漫画ならではの利点が活かされています。
日本酒の入門書としてもぴったりな、知的好奇心を満たす作品といえるでしょう。
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『夏子の酒』は日本酒業界の「変革期」を映し出した作品
『夏子の酒』連載開始の翌年にあたる平成元年(1989年)、それまでの「特級」「一級」「二級」に代わる、「純米酒」「吟醸酒」「本醸造酒」といった特定名称の分類などを定めた「清酒の製法品質表示基準」が告示されました。
それ以前から、純米や吟醸、本醸造といった製法で日本酒を造る地方の蔵元が現れていたこともあり、大手メーカーが大量生産した日本酒とは違った味わいを求める消費者によって「地酒ブーム」が起こります。
『夏子の酒』の作中でも、「日本酒は質か量か」を問うエピソードがしばしば描かれるなど、「変革期」の日本酒業界が抱えていた問題が取り上げられています。
さらに、無農薬有機栽培で大事に育てなければ死んでしまうという「龍錦」の栽培エピソードを通じて、農薬散布や減反といった日本の農業問題もしっかり描かれています。
『夏子の酒』は夢を追うヒューマンドラマでありながら、日本酒業界や農業の問題にも切り込んだ骨太の社会派ドラマの側面もある作品なのです。
『夏子の酒』既刊・関連作品一覧
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『夏子の酒』はテレビドラマ版も大きな話題に
『夏子の酒』は、平成6年(1994年)にテレビドラマ化されています。
熊谷幸子さんが歌う主題歌「風と雲と私」で始まるこのドラマは、夏子役・和久井映見さんをはじめとする豪華キャストで注目を集めただけでなく、夏子の実家・佐伯酒造のモデルになった、新潟県三島郡和島村(現・長岡市)の久須美(くすみ)酒造をはじめ、現地ロケを敢行。春の田植えから夏の出穂や台風、秋の稲刈りと脱穀、そして冬の酒造りまでの1年間を映し出そうとするなど、随所にわたるこだわりでも話題を呼びました。
若い世代が日本酒に興味を持つきっかけになったともいわれています。
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『夏子の酒』にはモデルとなった蔵元が実在する
画像提供:久須美酒造株式会社
『夏子の酒』の「『まぼろしの米』を復活させて日本酒を造る」という物語は、久須美酒造の「亀の尾(かめのお)」という米を復活させたエピソードがモデルとなっています。
『夏子の酒』のモデルとなった久須美酒造とは
銘柄「清泉(きよいずみ)」で知られる久須美酒造は、天保4年(1833年)年の創業以来、手造りの酒造りの伝統を守ってきた老舗蔵元。新潟県の名水にも選ばれた蔵の裏山に湧く「酒屋の清水」を酒造りのすべての工程で使用しています。
「亀の尾」を復活させたのは、6代目にあたる先代当主の久須美記廸(くすみのりみち)氏です。
「亀の尾」は、「コシヒカリ」や「ササニシキ」のルーツとなる食用米で、酒造適性にも優れ、明治時代から大正時代にかけておもに東日本で広く栽培されていました。
しかし、病害虫に弱く、大柄で倒れやすい「亀の尾」は、収穫量が少ないことに加え、肥料を多く与えると倒れてしまうという特徴もあったことから、農業の機械化や化学肥料を大量に使う農法が普及していくなかで、品種改良が進むと姿を消し、いつしか幻の米となってしまいました。
画像提供:久須美酒造株式会社
夏子の兄・康男のモデルとなった記廸氏は、昭和55年(1980年)、酒造りの名人として知られた越後杜氏(えちごとうじ)の河合清氏から「『亀の尾』で造った酒にまさる酒はない」という言葉を聞き、友人であり、のちに「亀の尾」の栽培にも尽力する地元農家の松永利治氏とともに、「亀の尾」の種もみ探しを始めます。
そしてようやく、穂にしてわずか10本、約1,500粒の「亀の尾」の種もみを入手。紙袋に入れ、原作と同じように、ネズミに食べられないよう天井からつるして田植えの時期を待ったといいます。
昭和56年(1981年)の春、松永氏の田んぼに種をまき、倒れないよう縄を張って支えるなど大事に育てた「亀の尾」は、その年の秋、30キログラムの種もみに。そこから作付面積を広げて収穫量を増やし、3年後の昭和58年(1983年)の冬、ついに「亀の尾」を使った純米大吟醸酒「亀の翁(かめのお)」を誕生させました。
栽培が難しい品種を、わずかな種もみから増やしてより上質な日本酒を造り上げたロマンあふれる記廸氏の取り組みは、『夏子の酒』の「龍錦」のエピソードにしっかり受け継がれている一方、久須美酒造には『夏子の酒』をきっかけに蔵に入った人もいるそう。モデルと作品の双方がよい影響を与えあっている好例ともいえるでしょう。
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『夏子の酒』には鳥取県出身の「日本酒界の重鎮」も登場
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『夏子の酒』には、酒造技術者の上田久(うえだひさし)というキャラクターも登場します。
元広島国税局鑑定官という設定で、「龍錦」を使った酒造りについて、杜氏の山田をはじめ、草壁や夏子たちに、辛口ながらも的確なアドバイスを送り、惜しみなく力を貸します。
上田のモデルとなったのは、酒造技術指導者として活躍した日本酒界の重鎮、故・上原浩(うえはらひろし)氏です。
鳥取県出身の上原氏は、広島財務局鑑定部や鳥取県工業試験場に勤めたのち、鳥取県酒造組合連合会技術顧問などを務めてきた人物で、純米酒の良さを説き、純米酒造りを広めたことでも知られています。
また、上原氏は鳥取県生まれの「強力(ごうりき)」という米の復活にも携わっています。「強力」は、「龍錦」のモデル「亀の尾」と同じく酒造適性があり、かつては盛んに栽培されていたものの、倒れやすいなどの理由から姿を消した米です。
上原氏の功績は現在にもつながるもので、鳥取県では「強力」をブランド化。大切に栽培されているほか、「強力」を使った純米酒造りも行われています。
『夏子の酒』から生まれた日本酒「るみ子の酒」
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三重県の蔵元、森喜(もりき)酒造場の「るみ子の酒」は、『夏子の酒』をきっかけとして生まれた日本酒ブランドです。
現専務の森喜るみ子氏は、蔵元当主の父が倒れたことから、当時勤めていた会社を辞めて結婚。夫婦で蔵へ入り、杜氏の指導を受けて酒造りを始めました。
ほどなく当時の売り上げのほとんどを占めていた大手メーカーとの取り引きが打ち切られ、廃業の危機に。そうしたなか、るみ子氏が出合ったのが『夏子の酒』でした。
地方の小さな蔵で奮闘する主人公の夏子と境遇が似ていることもあり、るみ子氏は『夏子の酒』の物語に共感。あふれる思いをしたためた手紙を送ったことから、『夏子の酒』の作者である尾瀬氏とのつながりが生まれます。
尾瀬氏は、全量純米酒蔵として知られる埼玉県の神亀(しんかめ)酒造をるみ子氏に紹介。基本に忠実で奇をてらわない神亀酒造の酒造りに影響を受けたるみ子氏は、自身の蔵でも純米酒造りをスタートさせました。
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神亀酒造の故・小川原良征(おがわはらよしまさ)氏らの協力もあり、ようやくできあがった純米酒は、尾瀬氏によって「るみ子の酒」と命名されました。尾瀬氏は、るみ子氏をモデルとするラベルデザインも手掛けています。
その後、森喜酒造場は酒米の王様と呼ばれる「山田錦(やまだにしき)」を無農薬で栽培するようになり、平成10年(1998年)からは、神亀酒造と同じく全量純米酒化を果たしています。
現在「るみ子の酒」は、きれいな酒質と豊かな味わいが堪能できる純米大吟醸酒をはじめ、純米吟醸酒や特別純米酒、山廃仕込みや生酛(きもと)造りのものなど、豊富なライナップをそろえたブランドとなっています。機会があれば、それぞれのお酒の味わいをぜひたのしんでみてくださいね。
製造元:合名会社森喜酒造場
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『夏子の酒』のモデルとなったお酒を飲もう
『夏子の酒』のモデルとなった蔵元が造る日本酒などを紹介します。
久須美酒造「亀の翁」
画像提供:久須美酒造株式会社
『夏子の酒』に登場する「龍錦」のモデルとなった幻の米「亀の尾」を精米歩合40パーセントで使用。キレのよさと豊かな味わい、穏やかな香りと酸味の絶妙なバランスがたのしめる純米大吟醸酒です。
製造元:久須美酒造株式会社
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久須美酒造「亀の翁 三年熟成」
画像提供:久須美酒造株式会社
酒米「亀の尾」を原料に造る純米大吟醸「亀の翁」を低温で3年間熟成。キレのよさはそのままに、まろやかさと奥深い味わいが増したとっておきの逸品です。
2016年、著名なワイン評論家のロバート・パーカー氏が提唱するワインの評価基準「パーカーポイント」が日本酒に採用されて話題となりましたが、このとき100点満点中98点の最高得点をマークしたのが、「亀の翁 三年熟成」。唯一、5段階評価の最高ランクである「格別」の評価を得て、海外からも注目を集めました。
製造元:久須美酒造株式会社
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久須美酒造「夏子物語」
画像提供:久須美酒造株式会社
『夏子の酒』をモチーフとする純米吟醸酒。落ち着いた香りとやわらかな旨味、なめらかな口当たりが特徴の飲み飽きしない淡麗辛口のお酒です。「夏子物語」には、フレッシュな味わいの「しぼりたて生酒」や、まろやかさがある「生貯蔵酒」といった冬季限定酒もあります。
久須美酒造では令和元年、創業200年を目指し、「伝統と革新」を基軸にラベルを一新。「伝統」を支えてきた久須美の家紋と、「革新」を担う7代目の長男で8代目の後継者となる諒典氏(15歳・当時)の書で表現しています。
製造元:久須美酒造株式会社
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稲田本店「純米吟醸 いなたひめ強力」
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鳥取県出身の酒造技術指導者、故・上原浩氏が復活に携わった鳥取県のオリジナル酒米「強力」を、精米歩合55パーセントまで磨いて醸した純米吟醸酒。ふくらみのあるフルーティーな香りと米の旨味が感じられるやや辛口淡麗のお酒です。常温または冷やして飲むのがおすすめ。
製造元:株式会社稲田本店
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『夏子のお酒』の主人公・夏子のように、女性が日本酒造りに携わり、評判のお酒を造ることも増えてきました。上述の「るみ子の酒」を手掛ける森喜酒造場の森喜るみ子氏を含め、女性杜氏や女性蔵元が活躍している蔵にも注目してみましょう。