禁酒法がウイスキーとアメリカ社会に与えた影響とは?

禁酒法がウイスキーとアメリカ社会に与えた影響とは?
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禁酒法は、1920年代のアメリカで施行されたお酒の製造や販売を禁止する法律で、ウイスキー業界にも大きな影響を及ぼしました。今回はアメリカの禁酒法の概要や、禁酒法が生まれた歴史的背景、アメリカ社会や酒類業界に与えた影響などについて紹介します。

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1920年代を中心にアメリカの歴史を振り返り、禁酒法とウイスキーの関係やアメリカ社会への影響を紐解いていきます。

禁酒法はアメリカで1920~1933年に施行された法律

アメリカで施行された禁酒法

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禁酒法とは、アメリカで1919年に成立、1920年1月に施行された禁酒を規定した法律のことで、「ボルステッド法(ヴォルステッド法)」とも呼ばれます。その内容は、ウイスキーを含めたアルコール飲料全般について、その製造や販売、運搬、輸出入を禁止するものでした。ただ、飲酒やお酒の所持については規制するものではありませんでした。

1919~20年といえば、第一次世界大戦(1914~1918年)が終了した直後のこと。空前の好景気を迎えていたアメリカ経済は繁栄のただ中にありました。

お酒の需要も活発で、禁酒法施行までは、とくにウイスキーやビールがアメリカ国民に人気でした。ウイスキーについては、1897年にボトルド・イン・ボンド法が制定されたことで、品質が保証されるようになり、ケンタッキーバーボンをはじめとした業界の近代化が進みました。

その一方で、飲酒による健康被害や犯罪などの弊害を訴える「禁酒運動」が高まり、敵国・ドイツのイメージが強いビール業界への反発なども追い風となって、禁酒法成立へと進んでいきました。

禁酒法の歴史的背景

バーの後ろの2人のバーテンダー

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禁酒法制定へと導いた節酒や禁酒運動は、19世紀初期から始まっていました。とくに、イギリスのピューリタン(清教徒)が最初に入植したアメリカのニューイングランドは、ピューリタニズム(清純な生活を理想とする思想)の伝統が強く、早くからアルコールに対する反発の声が強く上がっていました。

ボストンで禁酒協会が設立され、メーン州で初の禁酒法が制定されると禁酒運動はさらに盛り上がっていきました。宗教団体やさまざまな社会団体が、アルコール中毒などの健康被害や家庭内暴力、治安悪化などの弊害を訴え、各地で禁酒運動を展開。とくに女性団体の働きが大きな役割を果たしました。

禁酒運動の一部は過激化して、女性活動家のひとりキャリー・ネイションが、斧で酒場を破壊して回ったといった有名なエピソードも残っています。

禁酒運動は衰えることなく、1869年には禁酒党が結成されて、大統領候補を立てるまでになっていきました。

また第一次世界大戦時には、ウイスキーやビールの原料となる穀類の節約や、ビール造りを行うドイツ人への反感なども影響して、米議会で戦時中のアルコール禁止が承認されると、禁酒運動はさらに加速していきました。

禁酒法がアメリカ社会に与えた影響|密輸・密造の横行、ギャング台頭、闇居酒屋の登場

禁酒法がアメリカ社会に与えた影響

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禁酒法は、アメリカ社会にさまざまなマイナスの影響を与えました。前述のとおり、禁酒法でウイスキーなど酒類の製造・販売が禁じられたとはいえ、飲酒自体は違法ではなかったため、密輸・密造・密売の横行や、「スピークイージー」と呼ばれる非合法の酒場が増加する事態を招きました。また、ギャング同士の勢力争いにより、銃撃や殺人などの暴力沙汰が頻繁に起こり、かえって治安は悪化していきました。

密輸・密造の横行

アメリカ国内でアルコールの流通が禁止されたことで、これを商機と見なした者たちによって、密輸や密造が横行しました。アメリカは蒸溜酒を造る国に囲まれていることもあり、ウイスキーはカナダなどから、ラム酒はカリブ海の国から密輸。また金持ち向けに、スコットランドからスコッチウイスキーも密輸されました。

ほかにも、工業用アルコールを原料とした粗末な模造ジンが出回り、郊外の片田舎などでは密造蒸溜酒や自家製ワインも造られていました。

アル・カポネなどのギャングの台頭

密輸・密造に関わって、巨万の富を得たのがギャングです。ニューヨークではイタリア系移民が再編した組織「5大ファミリー」が勢力を誇り、デトロイトでは「パープル・ギャング」がカナダ産ウイスキーの流通を支配。そしてシカゴの暗黒街では、「スカーフェイス(傷跡のある顔)」で知られるアル・カポネとジョニー・トーリオが率いる「シカゴ・アウトフィット」がお酒の流通を支配しました。

なかでも有名なのは、数々の映画にも登場するイタリア生まれのマフィア、アル・カポネでしょう。映画『スカーフェイス』ではアル・パチーノが彼をモデルとした役を熱演。『アンタッチャブル』ではロバート・デ・ニーロ、『カポネ』ではトム・ハーディが本人役を演じるなど、今も悪名高きアメリカのギャングスターとして語り継がれています。

また、映画『ゴッド・ファーザー』では、ニューヨークの5大ファミリーのひとつルチアーノ・ファミリーのボスである、ラッキー・ルチアーノがモデルとして描かれています。

禁酒法時代には非合法酒場も登場

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「スピークイージー」と呼ばれる非合法の酒場も続々登場

禁酒法時代には、「スピークイージー(Speakeasy)」と呼ばれるもぐりの酒場も登場しました。大声では話せない場所なので、慌てず落ち着いてこっそりとお酒を注文するという意味合いでこう呼ばれるようになったそう。

この時代を象徴する「スピークイージー」は、現代のギャング映画にもよく登場しています。また、近年ニューヨークでは「スピークイージー」をテーマとした隠れ家バーが増えていて、人気を博しています。

アメリカの禁酒法が世界のお酒業界に与えた大きな影響

禁酒法でアメリカの酒類関連業界が衰退

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酒法は世界各地のウイスキー業界に影響を与えましたが、もっとも深刻だったのは、やはりアメリカでした。

禁酒法により、ウイスキー業界はじめアメリカの酒類関連業界が軒並み衰退

歴史を少し振り返ると、18世紀にジョージ・ワシントン大統領が独立戦争で疲弊した経済を立て直すためウイスキーに重税を課したことから、農民による反発が起こり、ウイスキー税反乱(ウイスキー反乱)が勃発。ケンタッキー州などに逃れた造り手たちは、トウモロコシを原料としたウイスキーを造り始め、バーボンウイスキーの原型が誕生しました。

その後、バーボンウイスキーをはじめとしたアメリカンウイスキー産業の黄金期を迎えますが、禁酒法によって阻まれることになります。

20世紀初頭、アメリカ国内にはバーボンウイスキーを中心としたウイスキー蒸溜所が3,000軒近くありました。しかし、禁酒法の施行を受けてそのほとんどが廃業に追い込まれ、優れたウイスキー職人が姿を消すことに。また、運良く生き残った蒸溜所なども、大手企業に吸収されていきました。

このためアメリカには、薬用を除いて、禁酒法以前から続くウイスキーブランドがないのです。また、バーボンウイスキーが生まれる前から幅広く飲まれていたライウイスキーは、禁酒法撤廃後もうまく再興できず、市場が縮小して長らく低迷の憂き目に遭うことになります。

衰退したのは造り手だけではありません。お酒を提供するバーなども閉店して、バーテンダーたちは職を失い、黄金時代にあったカクテル文化も消滅してしまいました。

当時の酒類関係者にとっては、まさに「悪夢の時代」だったのです。

偽物横行でアイリッシュウイスキーにも打撃

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偽物横行でアイリッシュウイスキーのイメージがダウン

禁酒法は、世界5大ウイスキーのひとつ、アイリッシュウイスキーにも大きな影響を及ぼしました。もともとアイリッシュウイスキーはアメリカでも人気が高く、主要な輸出先でしたが、禁酒法では海外からの輸入も禁じられていたため、業界は大打撃を受けることに。

これは、スコットランドで開発されたブレンデッドウイスキーの登場により、相対的に衰退しつつあったアイリッシュウイスキー業界に、追い打ちをかけるようなできごとでした。

加えて、禁酒法下のアメリカの闇市場では、粗悪な密造ウイスキーにアイリッシュウイスキーのラベルを貼った、まがい物を売りさばくことが横行して、アイリッシュウイスキーのイメージダウンにつながりました。

禁酒法は、かつては生産量世界トップを誇ったアイリッシュウイスキーの低迷を招く、大きなきっかけのひとつとなりました。

「高貴な実験」と謳われた禁酒法の終焉

アメリカの禁酒法の終焉

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アメリカ社会にさまざまな影響を与えた禁酒法ですが、1933年に終焉を迎えます。背景のひとつには密造・密売の横行やギャング同士の抗争があり、取り締まりが困難になっていたことが挙げられます。とくに都市部で、トラブルを阻止するには禁酒法を止めるしかないという世論が高まっていきました。

また1929年10月に始まる大恐慌も、アメリカ政府に禁酒法の廃止へと向かわせる理由になりました。財政を立て直すためには、アルコールからの税収が必要だったのです。

1932年にフランクリン・D・ルーズベルトが大統領に就任すると、翌年に禁酒法を廃止するための法律が両院で可決・各州で批准され、「高貴な実験」の号令で始まった禁酒法時代は幕を閉じました。

禁酒法がもたらした好影響について考える

禁酒法後のフィラデルフィアのバー

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「天下の悪法」とも呼ばれる禁酒法ですが、いくつかの好影響をもたらしました。

カナディアンウイスキーやラム酒の人気が沸騰

禁酒法によって躍進したウイスキーとして知られているのが、カナディアンウイスキーです。禁酒法はアメリカの隣国カナダでも施行されましたが、国境にあるケベック州では、酒類の販売こそ禁じられたものの、製造は可能でした。また、カナダ政府は輸出を禁じなかったため、カナダ産のウイスキーがアメリカにさかんに密輸されたのです。

皮肉なことに、禁酒法をきっかけとして、カナダのウイスキー産業が飛躍的に発展することとなり、禁酒法廃止後にも、カナダ産ウイスキーの人気は衰えることはなく、需要を満たしていきました。

また、禁酒法時代にはラム酒の人気も高まりました。アメリカ国内に密輸もされていましたが、富裕層などはモヒートやダイキリといったラム酒ベースのカクテルを求めて、直接キューバなどを訪れるようになったのです。こうして、ラム酒の生産が加速することになりました。

オレンジブロッサム

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新しいカクテル文化が誕生

禁酒法時代は新しいカクテル文化が生まれた時代でもありました。ラム酒を使ったカクテルや、質の悪い酒の味をごまかすためにミキサーなどを使ったカクテルも目立つようになりました。ジンとオレンジをシェイクして作る「オレンジブロッサム」はその例として挙げられますが、偽物のウイスキーやジンなどは、ジュースやリキュール、シロップ、フルーツなどと混ぜたほうがおいしく飲めたのです。

その一方で、アメリカのバーテンダーたちが世界各国のバーに移って、人気カクテルを考案。ヨーロッパなどではアメリカンスタイルのバーが根づいていきました。

ジャズ・エイジのフラッパー

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女性たちも自由を謳歌

禁酒法時代の第一次世界大戦後から1920年代は、「ジャズ・エイジ」とも呼ばれます。小説「グレート・ギャツビー」で知られる作家、F・スコット・フィッツジェラルドの造語ですが、このころは、女性が参政権を得て、自由を謳歌する若い女性たちが現れた時代でもありました。

とくに当時のニューヨークにはジャズ演奏やカクテルを売りにするナイトクラブなどもあり、「フラッパー(おてんば娘)」と呼ばれる女性たちは、古い慣習を捨て、バーなどでカクテルを飲んでダンスをしてたのしみました。それまでの「サルーン」と呼ばれる酒場は男性中心の場所でしたが、男女がともに飲んで語らうシーンが見られるようになっていきました。

禁酒法時代、日本はウイスキー産業の夜明け前

日本のウイスキー産業の夜明け

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アメリカで禁酒法が施行されていた1920年代、日本ではまだウイスキーは浸透していませんでした。そんな時代に、日本製の本格的なウイスキーを造ろうとしていた人物が、サントリー創業者である鳥井信治郎氏でした。

鳥井氏の手により、日本初のモルトウイスキー蒸溜所「山崎蒸溜所」が開設されたのは1923年(大正12年)。そして日本初の本格国産ウイスキー「白札(しろふだ)」が誕生したのは、世界が大恐慌時代に突入する1929年(昭和4年)のことでした。

禁酒法によってアメリカのウイスキー業界が衰退していたころ、遠く離れた日本では、ウイスキー産業発展の息吹が聞こえ始めていたのです。

アメリカの禁酒法は、アメリカ社会や酒類業界に多くの負の影響を及ぼしました。一方で、禁酒法があったからこそ生まれた文化もあります。バーボンウイスキーを片手にこの時代を描いた映画を観ながら、当時の気分に浸ってみてはいかがでしょうか。

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