黒船と共にやってきたウイスキーと日本の味わい深い歴史
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黒船と共にやってきたウイスキー
ウイスキーを語るときに外してはいけない国々があります。それは世界の5大ウイスキーの生産国です。その国は、スコットランド、アイルランド、アメリカ、カナダ、そして日本です。それぞれ独特な特徴を持ったウイスキーを生産しており、何を飲んだらよいか迷ったらこの5大ウイスキーから始めたらよいでしょう。
ここでは、日本のウイスキーについて紹介します。
日本にウイスキーが伝わったのは、1853年の黒船来航のとき。この船にスコッチウイスキーとアメリカンウイスキーが積み込まれ、交渉にあたった日本の役人や通訳に振る舞われたと「ペルリ提督日本遠征記」に記されています。
1853年の日米修好通商条約締結で長崎と横浜が開港されると少しずつウイスキーが輸入されるようになりました。1867年出版の福沢諭吉の「西洋衣食住」にはウイスキーに関する記述があり、1873年には岩倉使節団が欧米訪問から帰国した際、スコッチを持ち帰ったといわれています。
模造ウイスキーの時代
1902年に日英同盟が締結されてからは本場のウイスキーの輸入が増加、一般の人にも知られるようになってきました。それに、伴い国内で本格的なウイスキーを製造しよう、という機運も高まります。
しかし、ウイスキーが本格的に飲まれるようになるのは第二次世界大戦後のこと。1923年には日本で初めてウイスキーの蒸留所が創設されます。現在も操業を続けるサントリー山崎蒸留所で、寿屋(現サントリー)の創業者、鳥井信治郎が創設しました。1929年には、国産第1号のウイスキー「サントリーウイスキー」が発売されました。
敗戦直後、国産ウイスキーは上級将校からたいへんな人気で品薄状態だったそうです。しかし、一般市民にとってウイスキーはたいへん高価なものでした。しかも、手に入ったとしても安価なアルコールに砂糖や香料で味をつけただけの模造ウイスキーでした。本格的なウイスキーが人々の口に入るのは、もう少し先でした。
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ふたりの日本人が日本のウイスキーの歴史を変えた!
日本のウイスキー誕生にはふたりの日本人が重要な役割をはたしています。そのひとりが、前述した寿屋(現サントリー)の創業者、鳥井信治郎です。そしてもうひとりが、鳥井が蒸留技師として招いた竹鶴政孝です。
摂津酒造に就職していた竹鶴は、1918年にウイスキー製造を学ぶためにスコットランドに留学します。数年後、留学した知識を摂津酒造でのウイスキー製造に役立てようと帰国しますが、摂津酒造では計画がとん挫し、中学の化学教師に転身していたそうです。それを聞きつけた鳥井が、専門的な知識を持った竹鶴を山崎蒸留所の初代工場長に抜擢します。
竹鶴は、スコットランドで学んだ伝統的な手法でウイスキーを製造します。そして、蒸留所設立から4年後の1929年に国産第1号のウイスキー「サントリーウイスキー(通称、白札)」を発売します。
この後、後に竹鶴が起こした大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)、トミーウヰスキーで知られた東京醸造、大黒葡萄酒(後のメルシャン)など多くの企業がウイスキー事業に参入します。
日本のウイスキー製造は、世界の5大ウイスキーの中でも最も遅い時期に始まりました。しかし近年、日本のウイスキーは、世界の名だたるコンクールでトップクラスの評価を連続で獲得することで注目度が高まり、世界にも愛飲する人やコレクションする人が増えています。
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