愛知のビール【カブトビール】戦前の5大ビールに数えられる名品を復刻
「カブトビール」は、戦前まで愛知県で愛飲されていたビールを復刻したもの。一度は途絶えていた「カブトビール」を製造していた赤レンガ建物の保存に際して復刻が叶いました。「カブトビール」の復刻にまつわるドラマを見ていきましょう。
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「カブトビール」の始まりは明治時代
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「カブトビール」の歴史は、今から約130年前の明治22年(1889年)にまでさかのぼります。愛知県半田市において、ミツカングループの前身である中埜酢店の4代目である中埜又左衛門氏と、その甥で後に敷島製パンの創業者となる盛田善平氏らにより、瓶詰めビールが開発、販売されたのです。
当時、日本のビール業界にはサッポロ、アサヒ、エビス、キリンという4大ブランドが存在していました。愛知の小さな工場で生まれた「カブトビール」は、やがてこれと並んで「日本5大ビール」に数えられるまでになります。
明治31年(1898年)には「カブトビール(当時は加武登麦酒)」の醸造工場として半田赤レンガ建物が完成し、昭和16年(1941年)に企業整備によって閉鎖されるまで稼働を続けました。その間、約45年という短い期間ではあったものの、1900年のパリ万国博覧会では金牌を受賞するなど、その功績は今もなお伝えられています。
「カブトビール」復刻プロジェクトにかけた想い
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「カブトビール」は、半田赤レンガ建物の閉鎖とともに製造を終えました。明治の記憶をとどめるこの建物は、のちに食品加工会社に買収されましたが、昭和から平成へと時代が移るなか、取り壊しが決定しました。しかし、街のランドマークとして親しまれてきた建物を惜しむ半田市民から保存を求める声があがり、1996年には半田市が管理することになったのです。
補修や耐震工事が行われた半田赤レンガ倉庫は、2002年に一般公開され、多くの人が「カブトビール」に関心をもつきっかけに。地方都市にありながら、大手資本のブランドに負けないビール造りを担っていたこの建物で、その歴史あるビールを味わいたいという声があがり、「カブトビール」復興の機運が高まっていったのです。
そして2005年、愛知万博に向けた盛り上がりのなかで、全国の赤レンガ建物の保存や活用をめざす大会が半田市で開催されました。この流れにあと押しされるように、半田赤レンガ建物の利活用を進める市民グループ「赤煉瓦倶楽部半田」により、ついに「カブトビール」は復刻されたのです。
「カブトビール」の特徴は強い苦味と度数の高さ
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「カブトビール」の2005年復刻版は、隆盛を極めた明治時代の味を忠実に再現したものでした。その大きな特徴は、強い苦味と厚みのある風味です。製造過程において発酵時のエキスが多く残ったことや、使用するホップ量が現代の倍近くあったことなどが要因にあげられます。
また、明治時代のビールは、現代のビールにくらべて、アルコール度数がかなり高かったことも特徴のひとつ。当時は滅菌処理の技術が発達していなかったため、アルコール度数をあげて日持ちをよくするのが一般的だったからです。
こうした明治期のビールの特徴を備えた「カブトビール」は、現在のビールしか知らない人には大きなインパクトを与えます。キレやのどごしがよい一方で、ガツンとくる苦味や濃厚な味わいで、それでいてあと味がまろやかに残ります。
「カブトビール」は、かつて地方のビールブランドが市場を席巻していた時代を彷彿とさせる1本です。半田赤レンガ建物のたたずまいとともに、明治という時代のバイタリティを感じさせてくれます。
販売元:一般社団法人赤煉瓦倶楽部半田
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