蔵に湧き出る北アルプスの名水で“マボタキ”を醸す、富山・皇国晴酒造

蔵に湧き出る北アルプスの名水で“マボタキ”を醸す、富山・皇国晴酒造

日本の名水百選の水が蔵の敷地内に湧き出る国内唯一の酒蔵、皇国晴酒造。豊富で良質な水の恩恵を受け、清らかで透明感あふれる酒を醸し続けています。富山県産の酒米のみを使用し、地産地消を意識した酒造りを行う岩瀬社長にお話しを伺ってきました。

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目次

  • 「黒部川扇状地湧水群 岩瀬家の清水」が蔵の敷地内に
  • 創業は江戸時代後期
  • 地元に愛され続ける「豪華 生一本」
  • 酒蔵を継ぐと決め徹底的に日本酒と向き合う
  • いっさい手を加えていない天然の湧水を仕込み水に
  • 100%富山県産米を使用
  • シンプルで、飲み手に寄り添う酒を目指して
  • 富山湾の魚介に合う“マボタキ”
  • “従来の枠”を超えた挑戦を

皇国晴酒造の創業は明治20年となっていますが、これは前身である「岩瀬酒造」が法人化して酒造りを始めた時期であり、実際はそれよりも70年近く前の江戸時代後期から酒造りを行っていたそうです。地元の公民館に残されていた古地図には、現在と同じ位置に「酒蔵」の文字が記されていて、網元だった先祖が水に恵まれた地で酒造りを始めたのが最初といわれています。

古地図には酒蔵の文字。

古地図には酒蔵の文字。

地元に愛され続ける「豪華 生一本」

現在の社名へと変更したのは、昭和初期の頃。二代目の当主が、日清・日露戦争で勝利した日本の勢いにあやかり、“日本国が晴ればれとしている様子”を表す『皇国晴』を社名に採用しました。
酒蔵にとって困難な時代だった戦中・戦後を乗り越え、一時は5000石(一升瓶で50万本)を出荷するほどの生産を行っていたこともあったそうです。

当時、もっとも親しまれていた銘柄は「豪華 生一本(きいっぽん)」。
ちなみに、現在、“生一本”と表示できるのは、国税庁によって『ひとつの製造場だけで醸造した純米酒』と定められていますが、皇国晴酒造の「豪華 生一本」が醸造アルコールが添加されているのに“生一本”と表記できるのは、国税局が定める以前に「豪華 生一本」として商標登録を行っていたからだそうです。

「一本の筋が通ったような飲み口の豪華な酒」をイメージしたお酒は、地元の方たちの晩酌酒として長く親しまれています。
ちなみに30年程前に放映した「豪華 生一本」のCMは、富山県人なら誰でも口ずさむことができるほどお馴染みで大人気のCMだったとか。
当時のCMはこちら

富山で大人気だった「豪華 生一本」のCM。

富山で大人気だった「豪華 生一本」のCM。

「豪華 生一本」

「豪華 生一本」

口当たりがよく、するすると滑らかに喉を潤す吟醸酒。地元の晩酌酒として古くから親しまれ続けています。
購入はこちら

酒蔵を継ぐと決め徹底的に日本酒と向き合う

現在社長を務めるのは四代目の岩瀬新吾さん。高校を卒業後、東京の大学に進学。男ばかり三兄弟の次男に生まれた岩瀬社長は、当初、酒蔵は2歳違いの兄が継ぐものと思っていたそうです。ところがある日、同じく東京の大学に進学し、ひと足早く卒業を迎える兄から、「富山に戻って酒蔵は継がない。新吾、おまえが継いでくれ」と頼まれました。

突然の兄の告白に驚いた岩瀬社長でしたが、長く続いてきた酒蔵を自分たちの代で途絶えさせてしまうことはできないと意を決しました。
「まさか兄に酒蔵を託されることになるとは思ってもみませんでした。でも、元々日本酒は好きな酒だったので、抵抗なく受け入れることができ、この頃から日本酒と本格的に向き合い始めました」。

それからは、酒屋に足繁く通い、さまざまな酒をかたっぱしから飲み、また、趣味のバイクで全国を巡り見聞を広げるなど、酒蔵に戻ることを意識して残りの大学生活を送ったとか。さらに就職先も、酒の流通業界を知る必要性を感じ、酒類の卸業者へ。数年勤務したのち、広島県の酒類総合研究所で酒造りについて学び知識を身に付けという岩瀬社長。

「杜氏と同じ目線で話せるくらいの醸造の知識が必要だと思い、広島へ移り住んで約2年間学びました。鑑定官の先生のもとできき酒を徹底的にマスターできたことはとても勉強になりました。そして、他の酒蔵の方たちなど研究仲間との出会いも大きな収穫でしたね」。
難関の『清酒専門評価者』の資格も取得し、30歳を迎える頃、富山に戻り、数年後、社長に就任しました。

岩瀬社長

「年間400日は飲んでいます(笑)」というほど、プライベートでも日本酒が好きな岩瀬社長。マラソン大会に出場するスポーツマンの一面も。

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