<J-CRAFT SAKE蔵元探訪その①>島根県松江市・李白酒造 発祥の地から海外へ日本酒を届ける

<J-CRAFT SAKE蔵元探訪その①>島根県松江市・李白酒造 発祥の地から海外へ日本酒を届ける

4月23日に9銘柄を発表、順次飲食店でたのしめることになった “生酒(なまざけ)”ブランド『J-CRAFT SAKE』。日本全国に点在し、非加熱・無濾過という難易度の高い清酒造りに取り組む蔵元を訪ねる連載の初回は、日本酒発祥の地の一つとされる島根県にある『李白(りはく)酒造』です。

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1968年竣工した製造蔵『酒仙蔵』は今も現役。

太平洋戦争の戦中・終戦直後の混迷を持ちこたえた田中酒造。国をあげての復興が進むにつれ、日本酒の消費量も増え続ける中で、ブランド力や営業戦略に長けた大手酒造メーカーが急成長していきます。しかし、製造量が追い付かず地方の蔵元から瓶詰めせず原酒のまま買い付ける“桶(おけ)買い”を行い、田中酒造もこの流れにのって“桶売り”によって生産量を伸ばしていったそうです。

こうした桶売りが全盛だった昭和50年代に、4代目の征二郎さん率いる田中酒造は大きな転機を迎えます。全国の地酒や吟醸酒を発信するオピニオンリーダーたちとの交流が増えていた征二郎さんは、手頃な価格での桶売りを求めてくる大手に断りを入れ、品質を重視した高級酒造りへとシフト。酒造りに適した米だけを使用し、味わいをとことん追求した清酒を、自社ブランドで販売するようになったのです。

兵庫県産の山田錦を用いた大吟醸が数々の賞に輝き、首都圏での李白の認知度がアップ、県外からの取引きも増えてきたタイミングで、社名を李白酒造に変更。同時に「酒文化を普及し正しく後世に継承する」という経営理念を掲げ、今もこの指針に沿って営みを続けています。

いち早く海外のマーケットに進出する

看板商品の『純米吟醸 超特撰』には、“WANDERING POET”の文字が。

経営理念に沿って征二郎さんが目指したのは、海外へ日本酒文化を普及すること。1991年に取引のあった西武百貨店が、香港で初の海外出店。その際、日本酒を販売できる可能性があるのかをリサーチに出かけたことがきっかけで、香港輸出への道が開けたのだとか。「私にとって生まれて初めての海外家族旅行が香港。父にとっては市場調査のついでの家族サービスだったのでしょう」と懐かしい目の5代目・裕一郎さん。

征二郎さんは全国18の蔵元とともに『日本酒輸出協会』を設立、自身が代表理事を務めるなど、日本酒の海外における認知度アップに貢献されていました。やがてフランスのワインイベントに出展、アメリカにも進出。現在では、島根県にある蔵元の総輸出額の半分以上を占めて、ダントツのトップだそうです。

李白酒造を代表する銘柄の一つ『純米吟醸 超特撰』のラベルには、“WANDERING POET(放浪の詩人)”と印刷されていますが、これはアメリカ人に名前を覚えてもらうことと、レストランなどでオーダーしやすいようにと考案したニックネーム。他にも特別純米のにごり酒には“DREAMY CLOUDS(夢の雲)”といったように親しみやすい名前が付けられています。

「山田錦」を55%精米。伝統的手造りの技法でじっくりと低温発酵させた純米吟醸。まろやかな味わいとコクがあるのと同時に爽やかでキレの良さも。

ITと伝統的な製法を融合した酒造り

蓄積したデータに基づいて行う「洗米」。

最新式の甑(こしき)で米を蒸しています。

征二郎さんが66歳で他界された後、28歳の若さで当主となった長男の裕一郎さんに、差し迫った問題が。「季節雇用の職人さんたちが高齢になり、徐々に引退せざるを得なくなってきました。そうなると社員だけで酒造りをしないといけない。思い切った改革が必要となったのです」。

そこで酒造りのデータ化と品質向上につながる設備の導入を推進、経験と勘だけに頼る酒造りから脱却。しかし重要な工程では、原点に返り手作業に磨きをかけることを忘れなかったそうです。結果、革新と伝統が融合した新たな酒造りの手法を極めていくことになりました。

「例えば麹の緻密な温度管理とか、昔の職人さんがやりたくてもやれなかったことが、現在では容易にできますし、情報量も圧倒的にあります。今、酒造りに携わっている私たちは、昔の杜氏さんたちより優れた醸造ができて当たり前と肝に銘じ、仕事に向き合っています」。

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